アカデミーヒルズ ライブラリートーク「Visionary Institute - 2010 Seminar」 第6回の講師は松岡正剛氏でした。
事前に松岡氏の書かれた書籍を3冊ほど読んでいて、知の編集という事について興味を持っておりました。お話は言語のイノベーション(Change)というテーマで言語はその生い立ちから話さないと現在、そして未来につながらないという事で、その様な流れでお話しをされました。Visionary Institute 2010はMC Planningの薄羽美江さんの企画で行われているのですが、松岡氏なりにこの企画を汲んでお話をされたのではないかと思いました。
本日のお話の方向としては言葉は自然界、身体とは無縁ではない、つまり言語は誰でも喋れますから簡単だろうと思いがちですが、歴史的には様々な制約にaffordance(環境が与えるものが人間の知覚、行動に影響を与える)されるという観点からお話されました。つまり、人が机の上にあるコップを取ろうとしたときに、手がコップに近づくにつれて手の形をコップを持つ形にかえてゆく(afford)。言語もこれと同じなのです。
赤ちゃんは何かをきっかけにして母親から最初に言葉を教わるわけですが、1語から2語、そして文章となり、「やがて文脈が変わってきたり、組み立てが変わってゆきます。言葉ってとっても不思議ですね」。
これらのお話の組み立ては、松岡氏が1日1冊づつ書評をWeb上に書き連ねていった「千夜千冊」を引用するスタイルで行われました。最初に紹介された本はアンドレ・ルロワ=グーラン「身ぶりと言葉」。松岡氏によると人生を変えるような本で是非読んで欲しいと言われました。身ぶりと言葉は抜き方(鍵と鍵穴)である。つまり、言葉をはじめて覚えるのは、母の声と自分の動作を抜き型にしておこなうのであるということです。
ヨン=ロアル・ビヨルクヴォル「内なるミューズ」では、母なるものとは何か?なぜ、言語にマザーがあるのか?などについて述べています。全ての社会は母なる社会だった。やがて父系があらわれて母系性を換骨奪胎(組み立てなおす)して、父系社会を作り出した。男性原理は、財産権、社会の指導権、軍備権言語などを備えていって、現在のような社会を造っていった。しかし、言語には母的なものを残している。それが内にあるミューズ(知の女神)によるものである。言語を本気で考えるには、内なるミューズにまで遡らなければならない。
宮城谷昌光「沈黙の王」では、殷や周の時代に生きた武丁を扱っています。沈黙の王と呼ばれる武丁は喋れなかった。しかし、いろいろな人の声を聞くうちに、話が映像のように浮かんできていた。彼が、霊能力者に会ったときに、霊能力者がそのイメージを書いてみせたのが文字の始まり(甲骨文字)と言われています。
白川静「漢字の世界」では、言葉とは言霊(ことだま)を入れる容器にふたをしている様子を表していて、取り出しにくいものである。語ると言うのは、言霊の容器に縄をして取れないようにしている。つまり、本来言葉とはみだりに話すと針で口が刺されると言うぐらいのものである。そして、白川さんは言霊が文字の形になっていると言うことを明かしました。松岡正剛さんはこの本に衝撃を受けたそうです。松岡さんはニューヨークでナム・ジュン・パイクに会ったときに、彼は白川さんの書をほめて、「日本人は全部白川さんの本を読まないとだめね」と言われたのがきっかけで松岡さんは、「遊」という雑誌をはじめられたそうです。後に分かったのですが白川さんは「遊」という字が一番好きだったようです。「遊」というのは旗を掲げて、旗に犠牲を掲げて未知の場所へでかけてゆくという意味であるとの解釈です。このように文字とはリスクがあり、犠牲を伴うものであると説いておられます。
大室幹雄「正名と狂言」では、東洋的な物の中に出来上がってきた言葉は、言葉を正しくするという方向と、言葉を狂わせるという方向が出てきたそうです。正名とは孔子のことで、狂言とは荘子のことです。名を正しくするとは芸術、資本、企業というものは正しくしなさい、つまり、法令順守という考え方で、狂言では物事にとらわれずにもっと自由に言葉を使いなさいという考えの2つの方向に分かれてゆきました。東洋はこの両方を持ちながらいったのですが、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパでは狂言は異端であるという扱いだったそうで、異端を排したユダヤ教、キリスト教という社会が確立されてゆきました。
立川武蔵「空の思想史」では東洋では「空」、「無」という考えができてきたそうですが、ヨーロッパではこのような考えができなかったそうです。中国、日本、韓国などでは「空」とは、無ではなく、そのことをいったん無しにできるという思想があるということであるわけです。
「空」や「無」という考えを持てなかったヨーロッパでは旧約聖書の中の「ヨブ記」では神は絶対的なものであり、何をおっしゃっても、従う、また疑うものでないと言っています。松岡氏は旧約聖書の中で「ヨブ記」が一番好きだそうです。
また、松岡氏はこの本もどうしても読んで欲しいと言われていたルネ・ジラール「世の初めから隠されていること」を読めば、何をヨーロッパでは隠したのかが分かります。犠牲になったものの名前を隠す、暴力をほどこした被害者と加害者のことを隠したということです。以上が言葉というものが軽々しく口に出すものではないという事であり、おぞましいことが隠されていたことを明らかにしています。このような事が古代に起きてしまったので、そこから掘り起こさないと今日の21世紀の言葉のイノベーションなどないと言っておられます。旧約聖書にレベッカという話があります。レベッカは死んだ後に後妻を呪って長子相続の習慣に従わず、自分の嫁いだ次男を長男に見せかけて家を継がしてしまった。このことを松岡氏はレベッカの資本主義と呼んでいるそうです。われわれ日本人もこのことが分からない限り資本主義はダメだと思っているそうです。
以上が、言葉と言うものが簡単なものでないということを紹介されました。
言語と言うものをイノベーティブに考えるのは言語の詰まった物語である。発端があって、行き違いがあり、どんでん返しがあり、ハッピーエンドになるというパターンである。ジョセフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」は、全ての物語が同じシナリオで作られていることを明らかにしました。簡単に言うとSeparation、initiation、return。ジョージルーカスはこれに習ってスターウォーズを作りました。つまり、この形ができたため言語は物語になりました。
リュシアン・フェーヴル&アンリ=ジャン・マルタン「書物の出現」では、書物がどうして出来たかと言うと幾つか理由はあるのですが、今日は1つだけダブルページについてお話します。このダブルページと言うフォーマットを発見したことはものすごく大事なことである。人間が目で追って理解するための知の意味のフォーマットとしては抜群の乗り物だった。
ブレーズ・パスカル「パンセ」上下は物語と同じように重要なエッセイである。松岡氏の父親が死に近づいてゆくほど、子供の言葉に帰って行った(年齢退行)のがどうしてなのかを知りたくて、あるときに「細胞から大宇宙へ メッセージはバッハ」という医者の本を読んで、このルイス・トマスならば自分の父親のこの状況を説明してくれるだろうと思って米国に行って話を聞きました。松岡氏がお父さんの状況を説明したら、ルイス・トマスは私なりにその状況を仮設しますと言って、最初に松岡氏に聞かれたのが「松岡さんは一人の生命ですか?」でした。お父さんが一個の生命ではなく体の中にたくさんの言語生命(シャーマニックなもの)がいて、それが高熱や何かが原因で染み出してくるのは当然で、色々な言葉をしゃべり始めたのだと説明されたそうです。私たちはそれを封印して生きている、父なる社会を作ってとりあえずうまくいっている。しかし、犯罪は起きる。そういったものを制度の中に入れて隠してゆく。それが今日の資本主義社会である。そういったことをステファヌ・マラルメは「骰子一擲」の中で「書物は誰もが振るサイコロの一振りである。誰もがサイコロの一振りによって書物を書くべきである」といっている。サイコロは六面でしかないが、たくさんの生命がうごめいていて、パッと離れてパッとくっついてそういうものが書物になっているという本です。
だいぶ近代まで来て、このまま現代へといきたいのですが、ちょっと考えたいことがあります。
言葉と言うのは全部生きているとは限らない。英語(殺人言語と言われている)が広まってゆくせいだけではなく、身振りと言語が離れていってしまい、最後の人がその言葉を話さなくなると誰も喋らなくなる。そういうことを書いたのが、斎部広成「古語拾遺」です。
平田澄子・新川雅明「小倉百人一首 みやびとあそび」は今、社会から失われて、なくなってゆくものを残そうとしているわけです。「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」というような有名な三夕がなにを言おうとしたかというすばらしい事を忘れないようにしようと藤原定家はしたわけです。決して知識をひけらかすためではなく失われつつあることに非常に危機感迫るものであったのです。
その後、松岡氏は「編集学校」をはじめたわけですが、そこで何を伝えたかったかと言うとヨーロッパ的メソッドが失ったもの、日本的メソッドの失ったもの、あるいは日本的メソッドに潜んでいるものを、伝えようと思うようになったわけです。そして、「見わたせば花も紅葉もなかりけり…」というようなお題を出すようにました。そういうことをすると新しくコンセプトが作れるそうです。
日本の歌人で5人をあげるとすると必ずあげるのが心敬です。心敬は「ささめごと・ひとりごと」を書いたわけですが、今日はその中身ではなく、心敬はそこにはないもの、あるいは想像力がそこに加わらないと存在しない実在性を発見しました。それは今では冷え寂びといわれています。
フランス人に言われてジャパンクールといっているが、ジャパンクールと言ってしまうとその中に潜んでいるものが失われてします。例えば江戸時代に作られたコンセプト、”通”、”意気”、”勇み”のようなコンセプトがつくられて、いまだに残っているが、そういうのもの作られなくなった日本人がフランス人にいわれてジャパンクールなんて言ってはいけない。ほんとうにやるには冷え寂まで行かなければならない。
当時、外国語にとらわれることを漢意(からごころ)にはまった日本人がなんとか昔のほうに向かっていくことを説いたたのが、古意(いにしえごころ)というものです。吉川幸次郎「仁斎・徂徠・宣長」は古意を取り戻そうとしたのです。
こうなると言語だけ変えたのでは駄目で物語の構造そのものも変えなければならないので、それを徹底的にしたのが上田秋成の「雨月物語」で、これは中国の「白話」という物語のフォーマットを使って全部日本に読み直してしまいました。
そうなってくると型、フォーマットが重要になってきます。正岡子規の「墨汁一滴」は日本で一番古典的な型で一番シンプルなものと、そこに全ての西洋的な情報が入ってもいいようにしました。短歌と言う言葉を作ったのが正岡子規や与謝野鉄幹でした。それまでは和歌でした。
北原白秋「北原白秋集」のようにありとあらゆるものをフュージョンして子供心と南蛮とヨーロッパの美意識などを組み立ててゆくわけです。
そこで、いよいよ日本語とは何か、言葉とは何か、イノベーションができたのかどうかをもう一度考える日がやってきます。
上田三四二「短歌一生」は松岡氏が色々な人に薦めてきた話ですが、言葉と言うのはバラスト(船が沈まないために重石を船底に入れておく積荷)が必要だ(使わない言葉を持っている)というのです。それがあなたの表現力を高めるということを言っている。これを聞いたときに松岡氏はショックを受けたそうです。短歌とは、短い言葉だが膨大なバラストがある。
一方、ヨーロッパではアンドレ・ブルトン「ナジャ」が言葉をCut and pasteして言葉を自由自在に使う。これは日本人は出来なかったことです。
J・G・バラード「時の声」はSFですが、全ての物語の中に全てのものを入れてゆく。
レイ・ブラッドベリ「華氏451度」では、ある未来の社会で、書物は勝手な知識を増やすので禁止しようとする話ですが、書物を燃やし続けていると(華氏451度とは書物が燃え始める温度)、書物を燃やす前に人々が知識を吸収していて、燃やそうとしていた消防士が負けてゆくというお話です。
イタロ・カルヴィーノ「冬の夜ひとりの旅人が」では一人が動くことが全世界が冬の旅人として動くということに達するような文学書。
フリードリヒ・キットラー「グラモフォン フィルム タイプライター」では近代社会が作ったメディアツールはなんだったかを見直し、そこから何が生まれたかをもう一度見直す必要がある。そのことが今のブログを作ってきた。だとしたら、もう一度道具を見直さなければならない。
テオドール・アドルノ「ミニモ・モラリア」は道具(携帯やiPhoneなど)とあなたの間で生まれている一番小さいモラルでモラルハザードの逆。つまり、すれ違いで生まれる倫理観を見直すひつようがある。そういうところから、
ローレンス・レッシグ「コモンズ」やダン・ギルモア「ブログ」が立ち上がってくるのではないか。
最後に今までの話を言語のイノベーションとして大きくまとめると、私たちは結局、「でたらめさ加減」と「秩序」の戦いの中にいると思います。でたらめさ加減のことをエントロピーといっています。1つめ、ピーター・W・アトキンス「エントロピーと秩序」ではカオスが拡大している状態をエントロピーが増大しているということで、これにいつも秩序が対抗しているわけです。これは言語が一旦考えたことです。しかし、そういうなかで、エントロピーと秩序が入れ替わり立ち代り言語のイノベーションの中に出入りしていたのです。2つめは、私たちは元々生命の塵でした。
クリスチャン・ド・デューブ「生命の塵」最初に私達がいかに偶然に生まれたかを説明しています。生命の塵としての私たちは自分とそうでないものは濃度の違いであるととらえないと生命は捕らえられない。ですから、そういう生命の塵としての私たちはたくさんの情報のものになっているはずである。
スーザン・ブラックモア「ミーム・マシーンとしての私」私たちの体を占めているのは遺伝子(gene)ですが、意伝子(meme)というものがあって、遺伝子と文化意伝子が入れ替わったりして、そういうものが私たちの体をミームマシンとしています。
ルードヴィッヒ・ビトゲンシュタイン「論理哲学論考」では、言葉を考えたり、表現を考えたりするには松岡氏の造語であるカタルトシメス(語ると示す)というものを持たないといけないのではないか。つまり、語ると、示すが同時にあってもいいのではないか。
モーリス・メルロ=ポンティ「知覚の現象学」では、全ては間身体性にあるということを言いました。松岡氏は間文脈性も大事でないかと言っています。
ダニエル・デネット「解明される意識」で、これは仮説で松岡氏は70%くらいしか賛成していないが、私たちはドラフトの束だと言っている。つまり、勝手に動き出したドラフトの束をもう少し見つめなければいけないのではないか。
最後はルドルフ・シュタイナー「遺された黒板絵」で締めくくられました。松岡氏は「いやー、もういいですね。シュタイナーの黒板絵」世の中が、このシュタイナーの書いた黒板の絵のようになコミュニケーションされていかなければならないと言うことでした。
今後は、松岡正剛氏の出されている本で度々登場する、人は本を読んで影響され、自分なりに消化し態度が変容してゆくというようなお話がどこかで聞ければ良いなと思っています。
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