2010年10月20日水曜日

Visionary Institute 2010 Seminar 第7回 高間邦夫氏「人財のイノベーション 未来を開発する組織」 サマリー


Visionary Institute 2010 Seminar 10月18日 「人財のイノベーション 未来を学習する組織」と題してお話された高間邦夫氏のお話を聞きました。氏のお話はこのシリーズの全9回の第7回にあたり、4月から参加してきた私にとってはシリーズの終わりが見えてきたという感じです。
高間氏の会社は人材開発または組織開発コンサルタントを仕事としているものですが、学問としての人材開発ではなく、企業を生き生きとさせるという実務としの人材開発に取り組まれております。それだけではなく、実際に企業の業績が上がったりしないと認めてもらえないわけです。
最近の人財開発の流れは以下のようになっております。
・方法論の改善ではなく、組織に働く人の思想や文化を変えてゆくものです
・金銭的な報酬や勤務時間などの就労条件の改善といったベネフィットやコストの改善ではなく、働く人の心を変えてゆくことと捉えています
・座学からますます参加型に変化してきています。それも小グループでの対話を通じてお互いを理解しチームワークを育むというのが主流となりつつあるようです。
最初のお話は、米国の労働者と日本の労働者の幸福度を比較して、米国では長く勤めているほど幸福度が高まっていきますが、日本人では何年勤めても幸福度は低いまま一定であるという大阪大学のグループの調査結果を報告されました。これが問題ではないか?
働き甲斐を感じられない日本人の組織に対してどうしたらよいかを以下の観点からとりあげております。
①人々の視座を変える
ピーター・ドラッガーが「イノベーションとは新たな次元の創造だ」といっています。
従来は物事を直線的な思考で考えていたが、現在は複雑にからまっているので「システム思考」が必要になってくるわけです。このシステムには目的志向が必要になるわけですが、その際には視点を変えることが重要である。
②人々の認知の枠組みを再構成する
ケネス・J. ガーゲン「あなたへの社会構成主義」を読んでいただければいいと思います。
最近の研修では講師が座学で教えるのではなく、お互いの経験や知識などを話し合って高めあうということが行われています。
③オープンな話し合いの行い方
オープンな対話の作り方は思考の質を高めることが狙いです。そのためにはオープンに話しあうことです。
④ダイアログとはタバコ部屋の会話に似ている(上下の関係が存在しない空間)。
⑤アダム・カヘンは生成的ダイアログと儀礼的会話などを活用させて頂いております。
⑥オープ・スペース・テクノロジー(ミーティング)
人々の価値を共有し、ビジョンを生み出す
⑦AI ( Applicative inquiry )とは問いや探求により個人の価値や強みをみつける
⑧目標と現実のギャップをうめるという発想よりは、望ましい方向を模索することのほうがより前向きである
・推薦書籍のご紹介


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2010年10月9日土曜日

Visionary Institute 2010 World Cafe 第7回 「編集から読み解く知識創造/価値創造」 参加報告


全10回のvisionary Institute 2010 World Cafeも気がつけば、あと3回を残すだけとなってきました。しかし、Cafe的な対話には、毎回新鮮な感動があります。今回は、松岡正剛氏の”言葉のイノベーション”というセミナーを受けて、言語のイノベーションということで、”母なるもの”とは、”父なるもの”とはなにかについて、対話を行いました。
毎回のことではあるのですが、ファシリテータの薄羽さんの出されるテーマには驚かされます。
つまり、松岡正剛氏の”言葉のイノベーション”を受けての対話なので、”言葉が未来をどのように変えてゆくのか”というテーマで対話をするのかなと考えて今日を迎えたのですが、薄羽さんの発想では、”父なるもの”、”母なるもの”がどんなものであるかについて対話しなさいということで驚かされました。
でも、松岡正剛氏のセミナーを思い出してみれば、言葉がどのようにしてできて来たのか、そしてその言葉がどのようにして文字として現れてきたのか、から始まり、その後の発展から現代へとつながってゆくわけですが、そこで、母が生まれてきた子供に”動作”を通じて”言葉”というコミュニケーションをつたえてゆく、この”動作”と”言葉”が抜き型であるというお話をされました。言葉は、母語、母国語、昔の神は皆、女神であった。その後、社会を型にはめてゆくようになり、男社会、男の神が現れてきた。
じゃあ、”母なるものとは”、”父なるものとは”、これからどんな役割を果たして行くのかを、過去、現在を見通して対話しなさいとなるとまでは、予測できませんでした。
また、グループの発表者として、今日のグループの対話をこのようにしようと考えていたところ、対話の結論をそのまま表現するのではなく、イノベーションを感じさせる言葉で表現しなさいということで、二度驚かされました。
まだまだ、私の考えの底の浅さに気づかされました。毎度のことですが.......。
では、以下が各グループの対話の記録となります。
Aチーム
母なるものとは”見返りを求めないもの”である。
父なるものとは”資本主義”である。
第3者から完成したテーブルクロスを見た感想:
このチームは書記がいなかったようだ。それぞれの人が、自分の意見を説明しながら書き留めたようで、話し合い自体は盛り上がったのかもしれないが、テーブルクロスはまとまりがないように見えます。ですから、結論に至る過程が見えません。


AチームのテーブルクロスをMAPにまとめると、こんな具合?

Bチーム
母なるものとは”大地の母”である。
父なるものとは”偉大な父”である。
一番重要なのは”補い合う”ということです。補い合ってはじめて、明るい未来がある。
第3者から完成したテーブルクロスを見た感想:
私はこのグループでまとめ役をしたので客観的には言えませんが、流れを振り返ると、最初はやさしい、厳しい、右、左のように母、父を対比して話し合っていましたが、他グループの方が交わると、補い合うやノートとクレヨンなど片方だけでは成り立たないが、両方があってはじめて望ましい未来が生まれてくるという視点が加わり、最初のメンバーが戻ってくると、それに共感するようになりました。
BチームのテーブルクロスをMAPにまとめると、こんな具合?

Cチーム
母なるものとは”積分”である。
父なるものとは”微分”である。
つまり、母なるものとは”形を作るもの”。父なるものとは”変化を生み出すもの”。
こちらのチームでは、他のグループのように父なるものと母なるものが補い合うというのではなく、母なるものが、歴史を作ってきて、父なるものは付け足しである。
第3者から完成したテーブルクロスを見た感想:
こちらもAチーム同様、書記の方が数人いて、そこで出た話題が結びついてゆかず、そのうちの一つにメンバーの多くが賛成され、グループの意見となったように見えます。
CチームのテーブルクロスをMAPにまとめると、こんな具合?

Dチーム
母なるものとは”相手に合わせて形を変えることのできる器”である。
父なるものとは”明確に枠組みを作ってくれる器”である。
第3者から完成したテーブルクロスを見た感想:
こちらのチームは書記の人が全体とまとめて言ったように見えます。私たちのグループ(Bグループ)同様、父、母を対比して意見が述べられているようです。いつの時点でともに必要という意見が出てきたかは見当がつきませんが、イラストが効果的に使われているという点で、取り入れたいと思いました。
DチームのテーブルクロスをMAPにまとめると、こんな具合?

Eチーム
母なるものとは”包み込み、そして、それに力と栄養を与えるもの”である。
父なるものとは”種”である。
ただ、どちらかひとつではなく両方存在しなければ大きく育ってゆかない。
第3者から完成したテーブルクロスを見た感想:
こちらは書記の方がしっかりされているようです。一目で全体の流れが見えるようですばらしいと思います。キーワードがうまい配置で書かれているのも良いと思います。結論も、この流れでは妥当だと思います。

EチームのテーブルクロスをMAPにまとめると、こんな具合?


Fチーム
母なるものとは”動物性”である。
父なるものとは”人間性”である。
これは、区別されるものではなく、動物性と人間性は入れ子構造になっている。母は自由だったりナチュラルだったりしてプラスの言葉。父は秩序、命令など否定的な言葉が出てくるが、なぜ父が必要かというと母が動物としてそだて、父が社会規範を教えるということではないか。これは、教育のプロセスではないかなと思います。
第3者から完成したテーブルクロスを見た感想:
よーく見ないと分からないが、右下に小さくかかれているのが、母は動物性で、父が人間性である。それ以外の全体からはこの結論にはたどり着かない。果たして、グループ全員の総意であろうかと思わせるようなものであるが、最後はこの結論だとするとどの発言からそこに向かったかを知りたい。

FチームのテーブルクロスをMAPにまとめると、こんな具合?

10月9日追記
各グループの意見としては、ほぼ”母なるもの”と”父なるものは”、補い合うものであるということになりました。
また、1つのグループでは、が”母なるもの”でが”父なるもの”という結論でした。
最近、自分に不満を感じているのは、補い合うのは良いのだけれども、競い合う(高めあう)という観点が自分に不足しているように思っています。自分の本来持っているものは平均的な生き方ではなく、競い合うはずではなかったのかという反省にたち、気持ちの中では競い合うようにしています。
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2010年10月5日火曜日

「ワールド・カフェをやろう!」香取一昭 大川恒著 日本経済新聞出版社 を読んで

Visionary Institute 2010 World Cafeのシリーズに参加して、ワールド・カフェには興味を持っていましたので、私が最初に読んだ「ワールド・カフェ カフェ的会話が未来を創る アニータ・ブラウン&デイビッド・アイザックス著 株式会社ヒューマンバリュー」とは違う日本人の書いた本はないかと探して、この本を見つけました。

主な内容としては

・ワールド・カフェ独特のリラックスした雰囲気の中で生まれてくる発見について
・ワールド・カフェの進め方、準備の仕方、終わったあとのまとめ方
・ワールド・カフェの日本での事例
・ワールド・カフェが拓く新たな可能性

などでした。
すでにVisionary Institute 2010というシリーズで何度も繰り返しワールド・カフェを体験したものとしては物足りない紹介本でした。というのは、方法論が中心でやってみてのノウハウがとして書かれている部分が当然といえば当然のお話でした。

特にがっかりしたのが、ワールド・カフェの様々な事例として10例ほどありましたが、すべて上っ面の説明でした。これはその成果はそれぞれの団体の大切な内容ですから、そこには言及していませんでした。つまり、このようなテーマで話し合われてどのような結論になったかをテーブルクロスを見えるような形で提示することが、より具体的になるほどと思わせるのですが、それは企業秘密の部分があり、出せないのは分かっているので、このような紹介は不要だと感じました。

それよりは、著者は実際にワールド・カフェを教えたりしているわけですから、そこでの成果は自分達の例なので、そのようなものをもっと分析して、その成果を提示するほうが、より説得力があり、役に立つものではないかと思います。

この本で重要なのは第6章のワールド・カフェを成功するための留意点でしょう。
1つは、ワールドカフェの良い点は限られた時間の中で、皆が自由に対話(ダイアログ)することですが、自分の考えを一方的に押し付けようとしたり、どちらが正しいかを議論したりしてはいけないわけです。このダイアログについては著者の出された本が紹介されておりましたが、私は「ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ」デヴィッド・ボーム著 英治出版刊の本がお推めです。
2つ目は、ワールド・カフェにはテーマがあるわけですから、もし、一般のワールド・カフェに参加する場合は、とりあえずどんなものかではなく、関心を持って、しかも、自分なりの考えを持って参加すべきです。ふらっと参加して有意義だったというのは、稀だと思います。
3つ目は、会議でもワールド・カフェでもそうですが、やりっぱなしではいけません。振り返りが大事です。私はこのVisionary Institute 2010 World Cafeの参加を通じて、そこで毎回学んできたこと、疑問に思ったことを忘れずに、更に進化させてゆくことこそ、重要であると考えておりますが、この本でも「過去に経験をしたことのない新しい出来事や考え方に接すると、ただちにそれを受け入れることが出来ません。最初は無視しようとするのですが、やはり気になってきて、それと向き合おうとすると、強い違和感が生じ、頭の中に混乱を生じます。しかし、そうした混乱は、新しいアイデアを生み出すエネルギーの源泉になります」と書かれています。

Visionary Institute 2010 Seminar/World Cafeは、その成果を書籍にまとめると、これを企画、運営された薄羽美江さんが言われていたので、それが出来るのを楽しみにしております。

・書籍のご紹介

2010年10月2日土曜日

Visionary Institute - 2010 Seminar 第6回 松岡正剛氏「言語のイノベーション 未来が出現する編集技法」セミナー参加

アカデミーヒルズ ライブラリートーク「Visionary Institute - 2010 Seminar」 第6回の講師は松岡正剛氏でした。
事前に松岡氏の書かれた書籍を3冊ほど読んでいて、知の編集という事について興味を持っておりました。お話は言語のイノベーション(Change)というテーマで言語はその生い立ちから話さないと現在、そして未来につながらないという事で、その様な流れでお話しをされました。Visionary Institute 2010はMC Planningの薄羽美江さんの企画で行われているのですが、松岡氏なりにこの企画を汲んでお話をされたのではないかと思いました。

本日のお話の方向としては言葉は自然界、身体とは無縁ではない、つまり言語は誰でも喋れますから簡単だろうと思いがちですが、歴史的には様々な制約にaffordance(環境が与えるものが人間の知覚、行動に影響を与える)されるという観点からお話されました。つまり、人が机の上にあるコップを取ろうとしたときに、手がコップに近づくにつれて手の形をコップを持つ形にかえてゆく(afford)。言語もこれと同じなのです。

赤ちゃんは何かをきっかけにして母親から最初に言葉を教わるわけですが、1語から2語、そして文章となり、「やがて文脈が変わってきたり、組み立てが変わってゆきます。言葉ってとっても不思議ですね」。

これらのお話の組み立ては、松岡氏が1日1冊づつ書評をWeb上に書き連ねていった「千夜千冊」を引用するスタイルで行われました。最初に紹介された本はアンドレ・ルロワ=グーラン「身ぶりと言葉」。松岡氏によると人生を変えるような本で是非読んで欲しいと言われました。身ぶり言葉は抜き方(鍵と鍵穴)である。つまり、言葉をはじめて覚えるのは、母の声と自分の動作を抜き型にしておこなうのであるということです。

ヨン=ロアル・ビヨルクヴォル「内なるミューズ」では、母なるものとは何か?なぜ、言語にマザーがあるのか?などについて述べています。全ての社会は母なる社会だった。やがて父系があらわれて母系性を換骨奪胎(組み立てなおす)して、父系社会を作り出した。男性原理は、財産権、社会の指導権、軍備権言語などを備えていって、現在のような社会を造っていった。しかし、言語には母的なものを残している。それが内にあるミューズ(知の女神)によるものである。言語を本気で考えるには、内なるミューズにまで遡らなければならない。

宮城谷昌光「沈黙の王」では、殷や周の時代に生きた武丁を扱っています。沈黙の王と呼ばれる武丁は喋れなかった。しかし、いろいろな人の声を聞くうちに、話が映像のように浮かんできていた。彼が、霊能力者に会ったときに、霊能力者がそのイメージを書いてみせたのが文字の始まり(甲骨文字)と言われています。

白川静「漢字の世界」では、言葉とは言霊(ことだま)を入れる容器にふたをしている様子を表していて、取り出しにくいものである。語ると言うのは、言霊の容器に縄をして取れないようにしている。つまり、本来言葉とはみだりに話すと針で口が刺されると言うぐらいのものである。そして、白川さんは言霊が文字の形になっていると言うことを明かしました。松岡正剛さんはこの本に衝撃を受けたそうです。松岡さんはニューヨークでナム・ジュン・パイクに会ったときに、彼は白川さんの書をほめて、「日本人は全部白川さんの本を読まないとだめね」と言われたのがきっかけで松岡さんは、「遊」という雑誌をはじめられたそうです。後に分かったのですが白川さんは「遊」という字が一番好きだったようです。「遊」というのは旗を掲げて、旗に犠牲を掲げて未知の場所へでかけてゆくという意味であるとの解釈です。このように文字とはリスクがあり、犠牲を伴うものであると説いておられます。

大室幹雄「正名と狂言」では、東洋的な物の中に出来上がってきた言葉は、言葉を正しくするという方向と、言葉を狂わせるという方向が出てきたそうです。正名とは孔子のことで、狂言とは荘子のことです。名を正しくするとは芸術、資本、企業というものは正しくしなさい、つまり、法令順守という考え方で、狂言では物事にとらわれずにもっと自由に言葉を使いなさいという考えの2つの方向に分かれてゆきました。東洋はこの両方を持ちながらいったのですが、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパでは狂言は異端であるという扱いだったそうで、異端を排したユダヤ教、キリスト教という社会が確立されてゆきました。

立川武蔵「空の思想史」では東洋では「空」、「無」という考えができてきたそうですが、ヨーロッパではこのような考えができなかったそうです。中国、日本、韓国などでは「空」とは、無ではなく、そのことをいったん無しにできるという思想があるということであるわけです。

「空」や「無」という考えを持てなかったヨーロッパでは旧約聖書の中の「ヨブ記」では神は絶対的なものであり、何をおっしゃっても、従う、また疑うものでないと言っています。松岡氏は旧約聖書の中で「ヨブ記」が一番好きだそうです。

また、松岡氏はこの本もどうしても読んで欲しいと言われていたルネ・ジラール「世の初めから隠されていること」を読めば、何をヨーロッパでは隠したのかが分かります。犠牲になったものの名前を隠す、暴力をほどこした被害者と加害者のことを隠したということです。以上が言葉というものが軽々しく口に出すものではないという事であり、おぞましいことが隠されていたことを明らかにしています。このような事が古代に起きてしまったので、そこから掘り起こさないと今日の21世紀の言葉のイノベーションなどないと言っておられます。旧約聖書にレベッカという話があります。レベッカは死んだ後に後妻を呪って長子相続の習慣に従わず、自分の嫁いだ次男を長男に見せかけて家を継がしてしまった。このことを松岡氏はレベッカの資本主義と呼んでいるそうです。われわれ日本人もこのことが分からない限り資本主義はダメだと思っているそうです。

以上が、言葉と言うものが簡単なものでないということを紹介されました。

言語と言うものをイノベーティブに考えるのは言語の詰まった物語である。発端があって、行き違いがあり、どんでん返しがあり、ハッピーエンドになるというパターンである。ジョセフ・キャンベルの「千の顔を持つ英雄」は、全ての物語が同じシナリオで作られていることを明らかにしました。簡単に言うとSeparation、initiation、return。ジョージルーカスはこれに習ってスターウォーズを作りました。つまり、この形ができたため言語は物語になりました。

リュシアン・フェーヴル&アンリ=ジャン・マルタン「書物の出現」では、書物がどうして出来たかと言うと幾つか理由はあるのですが、今日は1つだけダブルページについてお話します。このダブルページと言うフォーマットを発見したことはものすごく大事なことである。人間が目で追って理解するための知の意味のフォーマットとしては抜群の乗り物だった。

ブレーズ・パスカル「パンセ」上下は物語と同じように重要なエッセイである。松岡氏の父親が死に近づいてゆくほど、子供の言葉に帰って行った(年齢退行)のがどうしてなのかを知りたくて、あるときに「細胞から大宇宙へ メッセージはバッハ」という医者の本を読んで、このルイス・トマスならば自分の父親のこの状況を説明してくれるだろうと思って米国に行って話を聞きました。松岡氏がお父さんの状況を説明したら、ルイス・トマスは私なりにその状況を仮設しますと言って、最初に松岡氏に聞かれたのが「松岡さんは一人の生命ですか?」でした。お父さんが一個の生命ではなく体の中にたくさんの言語生命(シャーマニックなもの)がいて、それが高熱や何かが原因で染み出してくるのは当然で、色々な言葉をしゃべり始めたのだと説明されたそうです。私たちはそれを封印して生きている、父なる社会を作ってとりあえずうまくいっている。しかし、犯罪は起きる。そういったものを制度の中に入れて隠してゆく。それが今日の資本主義社会である。そういったことをステファヌ・マラルメは「骰子一擲」の中で「書物は誰もが振るサイコロの一振りである。誰もがサイコロの一振りによって書物を書くべきである」といっている。サイコロは六面でしかないが、たくさんの生命がうごめいていて、パッと離れてパッとくっついてそういうものが書物になっているという本です。

だいぶ近代まで来て、このまま現代へといきたいのですが、ちょっと考えたいことがあります。
言葉と言うのは全部生きているとは限らない。英語(殺人言語と言われている)が広まってゆくせいだけではなく、身振りと言語が離れていってしまい、最後の人がその言葉を話さなくなると誰も喋らなくなる。そういうことを書いたのが、斎部広成「古語拾遺」です。

平田澄子・新川雅明「小倉百人一首 みやびとあそび」は今、社会から失われて、なくなってゆくものを残そうとしているわけです。「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」というような有名な三夕がなにを言おうとしたかというすばらしい事を忘れないようにしようと藤原定家はしたわけです。決して知識をひけらかすためではなく失われつつあることに非常に危機感迫るものであったのです。

その後、松岡氏は「編集学校」をはじめたわけですが、そこで何を伝えたかったかと言うとヨーロッパ的メソッドが失ったもの、日本的メソッドの失ったもの、あるいは日本的メソッドに潜んでいるものを、伝えようと思うようになったわけです。そして、「見わたせば花も紅葉もなかりけり…」というようなお題を出すようにました。そういうことをすると新しくコンセプトが作れるそうです。

日本の歌人で5人をあげるとすると必ずあげるのが心敬です。心敬は「ささめごと・ひとりごと」を書いたわけですが、今日はその中身ではなく、心敬はそこにはないもの、あるいは想像力がそこに加わらないと存在しない実在性を発見しました。それは今では冷え寂びといわれています。

フランス人に言われてジャパンクールといっているが、ジャパンクールと言ってしまうとその中に潜んでいるものが失われてします。例えば江戸時代に作られたコンセプト、”通”、”意気”、”勇み”のようなコンセプトがつくられて、いまだに残っているが、そういうのもの作られなくなった日本人がフランス人にいわれてジャパンクールなんて言ってはいけない。ほんとうにやるには冷え寂まで行かなければならない。

当時、外国語にとらわれることを漢意(からごころ)にはまった日本人がなんとか昔のほうに向かっていくことを説いたたのが、古意(いにしえごころ)というものです。吉川幸次郎「仁斎・徂徠・宣長」は古意を取り戻そうとしたのです。

こうなると言語だけ変えたのでは駄目で物語の構造そのものも変えなければならないので、それを徹底的にしたのが上田秋成の「雨月物語」で、これは中国の「白話」という物語のフォーマットを使って全部日本に読み直してしまいました。

そうなってくると型、フォーマットが重要になってきます。正岡子規の「墨汁一滴」は日本で一番古典的な型で一番シンプルなものと、そこに全ての西洋的な情報が入ってもいいようにしました。短歌と言う言葉を作ったのが正岡子規や与謝野鉄幹でした。それまでは和歌でした。

北原白秋「北原白秋集」のようにありとあらゆるものをフュージョンして子供心と南蛮とヨーロッパの美意識などを組み立ててゆくわけです。

そこで、いよいよ日本語とは何か、言葉とは何か、イノベーションができたのかどうかをもう一度考える日がやってきます。

上田三四二「短歌一生」は松岡氏が色々な人に薦めてきた話ですが、言葉と言うのはバラスト(船が沈まないために重石を船底に入れておく積荷)が必要だ(使わない言葉を持っている)というのです。それがあなたの表現力を高めるということを言っている。これを聞いたときに松岡氏はショックを受けたそうです。短歌とは、短い言葉だが膨大なバラストがある。

一方、ヨーロッパではアンドレ・ブルトン「ナジャ」が言葉をCut and pasteして言葉を自由自在に使う。これは日本人は出来なかったことです。

J・G・バラード「時の声」はSFですが、全ての物語の中に全てのものを入れてゆく。

レイ・ブラッドベリ「華氏451度」では、ある未来の社会で、書物は勝手な知識を増やすので禁止しようとする話ですが、書物を燃やし続けていると(華氏451度とは書物が燃え始める温度)、書物を燃やす前に人々が知識を吸収していて、燃やそうとしていた消防士が負けてゆくというお話です。

イタロ・カルヴィーノ「冬の夜ひとりの旅人が」では一人が動くことが全世界が冬の旅人として動くということに達するような文学書。

フリードリヒ・キットラー「グラモフォン フィルム タイプライター」では近代社会が作ったメディアツールはなんだったかを見直し、そこから何が生まれたかをもう一度見直す必要がある。そのことが今のブログを作ってきた。だとしたら、もう一度道具を見直さなければならない。

テオドール・アドルノ「ミニモ・モラリア」は道具(携帯やiPhoneなど)とあなたの間で生まれている一番小さいモラルでモラルハザードの逆。つまり、すれ違いで生まれる倫理観を見直すひつようがある。そういうところから、
ローレンス・レッシグ「コモンズ」やダン・ギルモア「ブログ」が立ち上がってくるのではないか。

最後に今までの話を言語のイノベーションとして大きくまとめると、私たちは結局、「でたらめさ加減」と「秩序」の戦いの中にいると思います。でたらめさ加減のことをエントロピーといっています。1つめ、ピーター・W・アトキンス「エントロピーと秩序」ではカオスが拡大している状態をエントロピーが増大しているということで、これにいつも秩序が対抗しているわけです。これは言語が一旦考えたことです。しかし、そういうなかで、エントロピーと秩序が入れ替わり立ち代り言語のイノベーションの中に出入りしていたのです。2つめは、私たちは元々生命の塵でした。
クリスチャン・ド・デューブ「生命の塵」最初に私達がいかに偶然に生まれたかを説明しています。生命の塵としての私たちは自分とそうでないものは濃度の違いであるととらえないと生命は捕らえられない。ですから、そういう生命の塵としての私たちはたくさんの情報のものになっているはずである。

スーザン・ブラックモア「ミーム・マシーンとしての私」私たちの体を占めているのは遺伝子(gene)ですが、意伝子(meme)というものがあって、遺伝子と文化意伝子が入れ替わったりして、そういうものが私たちの体をミームマシンとしています。

ルードヴィッヒ・ビトゲンシュタイン「論理哲学論考」では、言葉を考えたり、表現を考えたりするには松岡氏の造語であるカタルトシメス(語ると示す)というものを持たないといけないのではないか。つまり、語ると、示すが同時にあってもいいのではないか。

モーリス・メルロ=ポンティ「知覚の現象学」では、全ては間身体性にあるということを言いました。松岡氏は間文脈性も大事でないかと言っています。

ダニエル・デネット「解明される意識」で、これは仮説で松岡氏は70%くらいしか賛成していないが、私たちはドラフトの束だと言っている。つまり、勝手に動き出したドラフトの束をもう少し見つめなければいけないのではないか。

最後はルドルフ・シュタイナー「遺された黒板絵」で締めくくられました。松岡氏は「いやー、もういいですね。シュタイナーの黒板絵」世の中が、このシュタイナーの書いた黒板の絵のようになコミュニケーションされていかなければならないと言うことでした。

今後は、松岡正剛氏の出されている本で度々登場する、人は本を読んで影響され、自分なりに消化し態度が変容してゆくというようなお話がどこかで聞ければ良いなと思っています。

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